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『いのちの食べかた』

先日、歩いて25分の桜坂劇場で、『いのちの食べかた』という映画を観ました。普段何気なく口にしている肉や魚、野菜などなどの生産現場が、ナレーションもバックミュージックもなく延々と映し出されるという映画でした。

パプリカやトマトは野球でもできそうな巨大な温室の中で育てられていました。完全に消毒され、土が使われることもなく、ビニールに覆われた直方体のスポンジ状パットから苗が育ち、茎は天井からつり下げられてヒョロヒョロと育っていきます。その様子は畑というより工場に近い。

食肉の生産現場は、さらにその感を強くします。暗い書庫のようなところで孵化した途端、無造作にベルトコンベアーで運ばるヒヨコたち。何かの機械に通されて(予防接種のようなもの?)、やはり薄暗い驚くほど密集した鶏舎で育てられます。

育った暁には巨大な掃除機のようなもので吸い込まれて「収穫」され、またまた工場のラインにのせられて「生きた鶏」は「鶏肉」へと加工されてゆきます。

同じスピードで次々と運ばれていく逆さ吊りの鶏。加工場の要所要所に、死にきれなかった鶏にとどめを刺す人、頭を切り落とす人、内臓を分ける人…がいるわけです。それぞれ完全に分業されていて、おそらく「○○担当」の人は毎日、何年間も同じ工程を黙々とこなしているのです。

豚も、牛も同じです。私はだんだんいたたまれなくなってきました。

想像してみてください。

天井からぶら下がった状態で自分の目の前に運ばれてくる豚の列。その豚から一日中、足を切り落とす係りだったら。

同じようにブラーンとぶらさがって運ばれてくる牛の皮を、来る日も来る日も剥がす係りだったら。

一日の仕事が終わると、作業服は血まみれになっています。

これらの工場で「食料」として生産されている生きものたちに命の尊厳はありません。作業員が自らの扱っているモノを「生命」と認識したら、きっと作業ができなくなってしまいます。そして、その作業員の労働も、私には極めて厳しいものにうつりました。

せめて生きものたちが屠られる前に、あるいは一日の作業が始まる前に一度だけでもいい、何らかの祈りを捧げて欲しいと思ってしまいました。私には特別に信仰している宗教はないので、自分でもこのような考えが浮かんできたことに驚きを感じましたが、突然、10年以上も前のことを思い出して合点がいきました。

友人たちと潮干狩りに行き、獲れた貝をその場で貝汁にして食べたときのこと。友達の一人が沸いた湯に貝を入れるとき、一粒ずつに「いただきます」と唱えていたのです。“アナタノ命ヲイタダキマス。ドウゾ私ノ血トナリ肉トナッテクダサイ…” 彼女の「いただきます」には祈りがこめられていました。

毎日、品切れすることなくスーパーの棚に並んでいる大量の食料品。過熱する安売り競争の向こう側にある過酷な生産現場。食料にされる生きものたちにとっては凄まじい大量殺戮の現場であり、工場で働く人々にとっては戦場のように見えました。二次加工された食品も、血なまぐささがないだけで、きっとその労働の状況は同じようなものでしょう。

できるだけ生産者の顔が見えるものを買いたいと思いました。そしてあらためておもいました。これまで通り食事の度に欠かすことなく手をあわせ、「いただきます」を言い続けようと。

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